ころんくん
今回の記事は熱田神宮にかつて存在していた10m超えの巨大鳥居【一鳥居】についてご紹介していきたいと思います。
最近、江戸時代の熱田神宮に興味があり
当時の境内の雰囲気や周辺の街の様子などを調べていたら興味深い資料を発見しました。
江戸時代の熱田神宮には一鳥居と呼ばれる10m超えの巨大鳥居があったのです!
他にも今はもうなくなってしまった鳥居も見つけたのでこの記事にまとめてご紹介していきたいと思います。
目次
【一鳥居】熱田神宮にもあった!?10m超えの幻の巨大鳥居!
熱田神宮にはかつて10mを超える大鳥居があった事をご存知でしょうか?
熱田神宮は三種の神器である「草薙剣」を御神体とした歴史ある神社として
その名は全国に轟かせています。
有名な神社や規模の大きな神社には「大鳥居」と呼ばれる大きな鳥居が参道の入り口に立っていることがよくあります。
伊勢神宮には御幸道路の大鳥居
出雲大社には宇迦橋大鳥居
熊野本宮大社には大斎原の大鳥居
などなどが挙げられます。
鳥居に関してはこちらの記事で巨大鳥居の特集をまとめているのでよければ見てみてください!
しかし、現在の熱田神宮には境内を見回しても目立った大きな鳥居は見当たりません。
規模や知名度的には申し分ない神社なのに・・・
まぁ、必ずしも大きな鳥居がないといけないというわけではないので
そういう神社と思えばそれでおしまいです。
ですが、今回江戸時代の頃の熱田神宮の様子を調べていたら
見つけてしまいました!
江戸時代に刊行されていた観光案内ブック「尾張名所図会」にその存在がしっかりと明記されていました。
尾張名所図会は江戸時代後期から明治時代にかけて刊行されていた尾張国の観光案内ガイドブックのようなものです。
そこには「一鳥居 二鳥居の北尾頭町にあり、高さ三丈五尺・柱囲一丈。檜造の丹塗り」と書かれています。
つまり、二の鳥居の北側にある尾頭町に高さ10m51cm・柱の太さ9mの檜を丹塗りした鳥居と書かれているようです。
古地図でも確認してみると確かに鳥居が描かれていることがわかります。
(引用:尾張国名護屋図)
現在の地図だと国道19号線と県道29号線が交差する「新尾頭交差点」あたりにあります。
実際に現地に行ってみると国道19号沿いの歩道に「熱田神宮第一神門趾」と書かれた石碑が立っていました。
ここは美濃路街道として使われていた道で美濃国や信濃国から宮宿へ訪れる旅人たちが多く使っていた街道です。
もちろん、すぐそこには名古屋の城下町もあるので多くの人たちが一の鳥居を目にして熱田神宮へと足を運んでいたと考えられます。
尾張地方独特の文化!?鳥居は潜ってはいけない!
古地図をよくみてみるとちょっと不自然に思う箇所があることに気づきませんか?
鳥居のあるところだけ道が謎に膨らんでいます。
これはただ鳥居があるから地図上だけわざと広くしていたというわけではないようです。
どうやらこれには尾張国ならではの独特の文化が隠されていました。
通常、鳥居はこの先は神域であることを表す結界のような役割があると古くから言われています。
だから、鳥居をくぐる際には一度立ち止まり頭を下げて神域へと足を踏み入れるといったことが常識とされています。
ただ、尾張国ではその常識がちょっと違うようで
鳥居は潜ってはいけないという文化があったようです。
なぜそのような文化が根付いたのかはわかりませんが
当時の人たちは鳥居の外を通って参道を歩き進めていたそうです。
だから鳥居の両脇はわざと道が広く取られていていました。
尾張名所図会の挿絵をよくみてみると鳥居を潜っている人がいないようにも見えます。
僕が調べた限りでは尾張国の神社の鳥居には両脇に人が通れるスペースがわざと確保されている神社が多いように感じました。
なかなか興味深い文化ですよね。
熱田大宮司激怒!?鳥居をめぐった大事件勃発!
天保10年(1839年)10月に一の鳥居をめぐった一つの大事件が発生しました。
白鳥の御材木所手代である久米儀十郎という人物が自分の父親が亡くなったので
葬儀を行い、棺桶を寺へ運び出していました。
その時、ちょうど一の鳥居があるところに差し掛かった際、久米儀十郎は「自分は日蓮宗だから鳥居なんて関係ない!」と言い放ち、
棺桶をくぐらせてしまいました。
それを聞いた当時の熱田神宮の大宮司は激怒し、寺社奉行に久米儀十郎を訴え
鳥居を取り壊し再建したという大事件が起こりました。
(神道において死人は縁起が悪く、不浄なもの)
当然、久米儀十郎は裁きを受けることになり、尾張国から追放されました。
当時は今より神仏に対する態度は厳しかったのでこの事件は全国に広まり
江戸では「新刻名古屋噺」という芝居にこの事件の一部始終が上演されたほどらしいです。
ただ、これも不謹慎であったせいか幕府に2日間の上演で禁止命令が出たようです。
【八疆の鳥居】熱田神宮にかつて存在していた八つの鳥居
それでは、江戸時代にかつて存在していた熱田神宮の八つの鳥居を一気にご紹介していきます!
尾張名所図会では「八疆の鳥居」と呼ばれていて熱田神宮の観光名所として紹介されていたようです。
下馬鳥居・中鳥居・東鳥居・西鳥居・濱鳥居・築出鳥居・二鳥居・一鳥居
下馬鳥居
下馬鳥居は海蔵門より南に位置していることからおそらく現在の宝物館辺りにあったと推測できます。
中鳥居
中鳥居は海蔵門出たすぐ西へ行った境内の端にあることからおそらく現在の龍影閣辺りにあったと推測します。
東鳥居
東鳥居は春敲門より東に位置していることからおそらく名鉄「神宮前」駅の辺りにあったと推測します。
西鳥居
西鳥居は鎮皇門より東に行った堀川沿いにあることから現在の「宮中学校」辺りにあったと推測します。
濱鳥居
濱鳥居は東海道「宮宿」のあるところにあることか現在の「宮の渡し公園」トイレ付近にあったと推測します。
築出鳥居
築出鳥居は東海道「宮宿」入り口付近である精進川にかかる姥堂・裁断橋の手前にあることから現在の「伝馬町一里塚」から「姥堂」の間にあったと推測します。
二鳥居
二鳥居は断夫山古墳辺りにあることから現在の熱田区旗屋2丁目交差点辺りにあったと推測します。
一鳥居
一鳥居は二鳥居より北上した国道19号線沿いにある「熱田神宮第一神門趾」の石碑のある位置になります。
江戸時代の熱田神宮を感じる旅をしよう!
江戸時代の頃の熱田神宮の様子を一部ご紹介してきました。
鳥居一つとってもなかなか興味深い発見ができたのではないでしょうか?
もっと江戸時代の頃の熱田神宮を詳しく知りたと感じていただけたなら
ぜひ、こちらの記事も見てみてください!
熱田参拝がより深く、楽しく過ごすことができると思います!
それでは今回の記事はここまで!
また神社関係の検索結果でお会いしましょう!