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熱田神宮の門前町「宮宿」を散策!江戸時代はどうなっていた!?

ころんくん

わん!宮宿を散策するわん!

今回の記事は、熱田神宮の門前町である東海道41番目の宿場町「宮宿」を散策したいと思います!

宮宿は東海道最大の規模を誇る宿場町として大いに賑わっていたと言われています。

そんな宮宿を江戸時代に刊行された「尾張名所図会」を片手に当時の様子と現在を感じながら散策していきます。

熱田参拝するなら宮宿散策も合わせてしてみるとより熱田神宮のことがわかると思うので

よければ参考にしてもらえればと思います!

東海道41番目の宿場町「宮宿」とは

宮宿は熱田神宮の門前町として東海道最大の規模を誇る宿場町でした。

その規模は、本陣:2軒・脇本陣:1軒・旅籠屋:248軒を擁し、

家数:2924軒・人口:10,342人を数えていたほど巨大な門前町でした。

どのくらい大きかったというと、

次に大きな宿場町は42番目の「桑名宿」と言われ、旅籠の数が120軒でした。

旅籠の数が倍違うことからその大きさを伺い知ることが出来ます。

ころんくん

旅籠は民宿や旅館のことを言うわん!

また、宮宿は美濃路や佐屋街道といった他の街道の分岐点だったり、

宮宿と桑名宿との間には「七里の渡し」という街道唯一の海路が設けられていたので

より一層賑わいを見せていたものだと考えられます。

ころんくん

他にも名古屋城下街が北にあったりと尾張国は人気があったわん!

熱田神宮の門前町「宮宿」を散策!江戸時代はどうなっていた!?

それでは熱田神宮の門前町「宮宿」を散策していきたいと思います!

見どころポイント
  • 姥堂と裁断橋
  • 鈴之御前社
  • 源大夫社(上知我麻神社)跡地
  • 西浜御殿・東浜御殿
  • 七里の渡し

姥堂と裁断橋

スタート地点は宮宿入り口付近だと思われる裁断橋と姥堂のある地点からです!

当時の様子は尾張名所図会にしっかり描かれているのまずそちらをご覧ください。

当時、宮宿の東側には精進川という川が熱田湊へ向けて流れていました。

裁断橋は精進川にかかる橋として東海道を旅してきた人たちを迎えてきました。

しかし、残念ながら精進川は大正15年に埋め立てられてしまい裁断橋はお役目を終え、

現在は見ることが出来ません。

橋の手前には「築出鳥居」と呼ばれる鳥居が建っており、宮宿に到着したことを伝えていたもののようです。

ちなみに

熱田神宮には「八疆の鳥居」と呼ばれていた八基の鳥居が存在していました。

宮宿には「築出鳥居」とあとで紹介する熱田湊にある「濱鳥居」が八疆の鳥居に数えられています。

尾張国独自の神社建築様式【尾張造】について

裁断橋を渡った先には「姥堂」と呼ばれるお堂があり、当時のものではありませんが現在も見ることが出来ます。

一階部分には裁断橋跡の石碑と端材が置かれていました。

2階が姥堂となっており、本樽である「奪衣婆」が祀られています。

何度か訪れたことがあるのですが基本的に扉が施錠されていて中に入ることが出来ません。

たまたま通りかかった地元の人に聞いたらたまに開錠されているみたいです。

 

姥堂は円福寺の末寺で精進川を三途の川とし、「奪衣婆」を置いたようです。

奪衣婆は三途の川を渡ってきた人の身ぐるみを剥ぐ冥界の住人で、いわゆる鬼婆です。

なぜ、熱田の入り口に奪衣婆を置いたのかは不明ですが

江戸時代から今もなお奪衣婆は同じ場所に鎮座しています。

ちなみに

現在の「奪衣婆」像は熱田空襲によって焼却してしまったものを再建したものです。


参考
姥堂Wikipedia

絵図の場所を同じ構図で見るとこんな感じになります

鈴之御前社

姥堂を超えて東海道を先へ少し進むと「鈴之御前社」が左手に見えてきます。

鈴之御前社は熱田神宮の末社になる神社です。

今もそうですが旅人は猛獣避けとして鈴を持って旅することが一般的でした。

鈴之御前社では熱田神宮へ参拝する前に所持している鈴のお祓いを行い、

旅の安全を祈願感謝し、身を清める祓戸社です。

熱田神宮の夏越しの祓神事は毎年7月31日ここで行われ、一定の期間だけ茅の輪くぐりを行えます。

 

江戸時代の頃の鈴之御前社は場所が現在地とは少し異なります。

尾張名所図会を見ていただくとわかる通りで

左に正覚寺・右に精進川が描かれていることからこのような位置にあったと思われます。

おそらく想像ですが、昭和20年の熱田空襲によって被害を受け、現在地へ整備されたものと推測します。

 

東海道を歩き進めていきます

源太夫社

東海道をドンツキまで歩き進めていくと源太夫社があった場所に行き着きます。

源太夫社は今で言う「上知我麻神社」のことです。

現在は八剣宮と同じ境内にありますが

元々は、東海道上にあったんですね!

T字路の角を見ると道標が建っていますね。

実はこれ今も同じ場所に建っています。

こちらの道標は寛政2年(1790年)のもののようです。

ちょうどここが東海道と美濃路との合流地点となっていました。

北を見ると今も熱田神宮が見えます。

休日はいつも駐車場渋滞してますね・・・笑

ちなみに

10mほど戻った場所に宝暦8年(1758年)の道標も現存しています。

先ほど紹介した道標より古いものなので興味があれば拝見してみるといいですよ!

民家の敷地の中にあるので配慮が必要なのはご理解ください。

ほうろく地蔵

ほうろく地蔵は上知我麻神社跡地に建つ小さなお堂です。

上知我麻神社が戦後の復興事業の一環で熱田神宮境内へ遷座すことに伴い、

少し東の位置にあったほうろく地蔵のお堂を現在地へ移動させたようです。

上知我麻神社とほうろく地蔵の繋がりはありませんが

跡地を今に伝える尊いお堂であるようにも感じます。

ほうろく地蔵

 

尾張名所図会によれば、この石地蔵は、もと三河国重原村(現在知立市)にあったが、

野原の中に倒れ、捨石のようになっていた。

ところが、三河より焙燈を売りに尾張へ来るものが、

荷物の片方の重しとしてこの石仏を運んできて、ここ熱田で焙格を売りつくした後、

石仏を海辺のあし原に捨てて帰った。

地元の人がこの石仏を発見し、安置しようとしたが、

動かないので怪しんでその下を掘ってみると、土中にこの仏の台座と思われる角石が深く理もれていたので、

皆が不思議なことだと思い、その台石を掘り出し、この石仏を置いたのが、すなわちこの地蔵である。

お堂の前には小さな石仏が安置されていました。

熱田湊へ

T字路を南へ熱田湊方面を目指して進みます。

現在は県道55号を横断しないといけないので歩道橋を利用して進みます。

歩道橋からは熱田名物の鰻屋「蓬莱軒」が手前に見えます!

うなぎのいい匂いを出していますね!

本日も大繁盛です!笑

 

西浜御殿

蓬莱軒を超えて南下していくと右側の通りに「西浜御殿跡」案内板があります。

西浜御殿は承応3年(1654年)に尾張藩第二代藩主徳川光友の命によって造営された

幕府の役人や公家・諸大名などの宿泊施設で豪華絢爛な内装だったと記されています。

現在の地図で規模を推測すると赤枠で囲んだ範囲が建物の大きさだと思います。

東浜御殿

西浜御殿があれば東浜御殿があるのでは?

と容易に想像ができますよね!

その通りです!

東浜御殿は確かにありました。

東浜御殿は、寛永元年(1624年)に初代尾張藩主徳川義直の命で

神戸の浜を埋め立てて出島をつくり、そこに造営された名古屋城丸御殿に匹敵する壮麗な仕様だったと言われています。

その大きさは、1万平方メートル以上と広大で海上城郭の様相を誇っており、

小天守閣のような西側の高楼は、桑名城の天守閣に対抗して建造されたものと言われています。

寛永11年(1634年)には、三代将軍徳川家光が上洛の際に宿泊したようです。

現在は姿形などは一切残っていませんが内田町付近であったと推定され

確かに存在していたことは明らかになっています。

2018年に徳川林政史研究所(東京)において詳細な間取図が発見されました。

見取り図や尾張藩が残した当時の写真が添付されている資料があるので興味のある方はぜひご覧ください!


参考
熱田東浜御殿・西浜御殿の成立と終焉及び構造の分析

七里の渡し

熱田宮宿東海道の散策の終盤です。

最後は「七里の渡し」です。

七里の渡しは宮宿の最終エリアでここから先は海路となっています。

次は42番目の宿場町「桑名宿」です。

江戸時代ではここから七里(約27km)を船旅していきます。

現在の七里の渡しは船の出航は行なっておりませんが

「NPO法人 堀川まちネット」という団体が企画として

宮宿→桑名宿の海路をチャーター船で旅する企画を行なっているみたいです。

興味のある方はサイトをご覧ください。

東海道 七里の渡し船旅 学習会

※2025年度の予定は下記のとおりです。

◆実施日:2025年11月01日(土) 1日2便 定員:各45名
①熱田発:熱田(宮:七里の渡し跡:宮の渡し公園)→桑名(住吉神社南側船着場)
熱田(宮)11:00発  桑名13:00頃着
②桑名発:桑名(住吉神社南側船着場)→熱田(宮:七里の渡し跡:宮の渡し公園)
桑名14:00発  熱田(宮)16:00頃着

◆実施日:2025年11月15日(土) 1日2便 定員:各45名
①熱田発:熱田(宮:七里の8渡し跡:宮の渡し公園)→桑名(住吉神社南側船着場)
熱田(宮)11:00発  桑名13:00頃着
②桑名発:桑名(住吉神社南側船着場)→熱田(宮:七里の渡し跡:宮の渡し公園)
桑名14:00発  熱田(宮)16:00頃着

湊には「時の鐘」と「常夜灯」の復元物が建っており当時の雰囲気を表現しています。

時の鐘は、延宝4年(1676年)尾張藩主光友の命により、蔵福寺に設置されたものをここに再建したものです。

正確な時刻を知らせるこの鐘は、時計台のような役割を果たし、

東海道を旅する人や熱田に住む人々たちにとって時刻を知らせる重要な役割を果たしていました。

鐘の現物は今も蔵福寺に大切に保管されているようです。

 

その横に立つ常夜灯は尾張名所図会にもしっかり描かれており、

夕暮れ時の渡航者を無事に向かい入れる灯台のような役割がありました。

残念ながらこちらも当時のものではなく、昭和30年に復元されたものです。

 

周辺には当時、「伊勢久」という旅籠だった建物が残っていたりと

当時を感じるものがあるので自由に散策してみると新しい発見があると思います。

 

ということで散策は以上となります!

最後に:江戸時代の熱田神宮

最後に少し江戸時代の頃の熱田神宮境内をご紹介して今回の記事はおしまいです。

当時の熱田神宮は現在の境内とはまるで違う様子なのでかなり興味深いと思います。

本宮の様式が違うことや境内にある神社の数など今とは全然違います。

熱田神宮は昭和20年の熱田空襲による被害を受けほとんどが焼失してしまいました。

その後の復興で現在の姿に生まれ変わり現在を迎えています。

こちらの記事で詳しく解説しているのでぜひ見てみてください!

【特別参拝ルート】江戸時代と今の熱田神宮を徹底比較!

それではよい参拝を!

 

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