信長塀は織田信長が熱田神宮を守るために造った鉄壁の壁だった

信長塀は織田信長が熱田神宮を守るために造った鉄壁の壁だった

ころんくん

わん!旅マガ案内犬のころんだよぁ!

今回は熱田神宮に建造してある信長塀を紹介するわん!

調べてみるといろいろと面白いことがわかったわん!

どうも、ユウヤです!

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今回の記事は、愛知県名古屋市の熱田神宮にある信長塀についてご紹介します。

 

信長塀は戦国武将である織田信長が桶狭間の戦い直前に熱田神宮で勝利祈願し、

戦に大勝利したことによって寄進された信長からのお礼の品です。

 

でも、お礼の品にしては塀ってちょっと地味だと思いませんか?

 

信長だったらもっと立派な目立つものを贈りそうな気がします。

 

そこで、織田信長という人物と寄進された塀をよくよく調べてみたら

現在の熱田神宮にある信長塀からは想像もできない素晴らしい塀ということがわかりました!

 

そしてどんな思いで織田信長が信長塀を造らせたのかを紐解いてみたいと思います。

信長塀は織田信長が熱田神宮を守るために造った鉄壁の壁だった

信長塀

それでは、信長塀はどんな壁なのかみていきましょう。

 

現在の熱田神宮にある信長塀は意味わかんないところに断続的に立っているだけです。

 

現在からでは鉄壁の壁と言われてもピンとこないと思います。

 

では、イメージをしてもらいやすくするために江戸時代の頃に描かれた熱田神宮の浮世絵をご覧ください。

当時の絵は忠実に再現されてあるものばかりなのでこちらの浮世絵も信頼できるものだと僕は思います。

 

ご覧いただいた通り本殿を囲むような形で塀が建てられていると思います。

 

これが当時、信長が熱田神宮に寄進した塀の本来の姿です。

 

正面の塀の長さは400mもあったと言われています。

 

現在ではこの3分の1程度しか残っていない状態です。

 

では、なぜこの塀が鉄壁の壁なのか?

 

信長塀は正式名称「築地塀ついじへい」と言います。

築地塀とは
泥土を固めて作った塀のことを言います。

一般的には公家の邸宅や寺院などの外枠によく用いられていました。

主な目的としては、敷地の境界を明確にすることや外から中を見えなくすると言ったような目的で建てられていました。

今でも立派なお家は外から庭や一階部分が見えなくなっていたりしているよね

信長塀は一般的な築地塀とは作りがまるで違うのです。

 

泥土を固めただけの築地塀ではなく、土と石灰を油でよく練り合わせたものに、

瓦を間にサンドさせていき瓦葺き屋根を設置して作り上げたものです。

この作りの塀は非常に頑丈で戦国時代の武器では早々に破壊されることはなかった鉄壁の壁と言われています。

信長塀の断面
信長塀は熱田神宮の他に京都の石清水八幡宮にもあります。

そこで修復工事を行なった時に撮影されたものがありました。

参照:京都新聞

そもそもなぜ頑丈に作る必要があったのか?

 

これには信長の2つの思いがあったと推測されます。

鉄壁にした理由①:鉄砲

信長塀が鉄壁の塀である理由は鉄砲が関係していると思われます。

桶狭間の戦いがあった永禄三年にはすでに鉄砲が日本に伝わっていました。

実際に戦に使われるのはもう少し後なんですが

新しいもの好きでも有名な信長はもしかしたらこのときすでに戦に鉄砲が使われると思って頑丈な鉄壁の壁を作ったのかもしれませんね。

鉄壁にした理由②:熱田神宮を敵の信仰から守りたかった。

ちょっと話が逸れるのですが

どうしてもこの話をしておく必要があるのでお伝えします。

実は信長は「無神論者」ではなかったと僕は思っています。

有名な出来事で「比叡山延暦寺の焼き討ち」があります。

神様や仏に手をあげることはあってはならないというのが日本人の考えです。

それに反して焼き討ちをしたり大量虐殺をしたということは神仏を何とも思っていない無神論者であることを暗示しているほかないと思われています。

詳しくは長くなるのでここでは述べませんが

信長の立場になって延暦寺を見てみると無神論者とは言い切れないと思います。

天下を取るための敵として延暦寺が立ちはだかっていたらどうでしょうか?

信長の敵に味方する寺でどうしようもなかったらどうでしょうか?

寺を襲ったという事実だけを見れば外道だけど

見方を信長目線で考えてみたら無神論者だったということは断言できない気がします。

それに桶狭間の戦いという超重要な戦いの前に無神論者が必勝祈願なんてしますか?

さらに凝った造りの塀をわざわざ寄進するとは到底思えません。

おそらく信長は当時の人たちと同じように神仏の信仰はあったんだと思います。

だから自分を勝利に導いた神社を万が一の戦に備えて守ろうとしたのかもしれません。

江戸時代の信長塀は国宝だった海上門と繋がっていた

さて、ここからの章では僕が信長塀を調べていたら面白いことがわかったので合わせてここで記事にします。

 

信長塀は海上門という国宝と繋がっている塀でした。

 

海上門は当時の熱田神宮の正門でした。

 

元々熱田神宮には神宮四門と呼ばれる門が存在していました。

神宮四門
  • 海上門かいしょうもん(別名:海蔵門かいぞうもん):正門または南門
  • 春敲門しゅんこうもん:東門
  • 鎮皇門ちんこうもん:西門
  • 清雪門せいせつもん:旧北門

神宮四門の中でも海上門は大正時代から国宝として多くの参拝客を見てきた門でした。

海上門

しかし、昭和20年(1945年)の空襲によって焼失してしまい

復元する予算が当時なかったため鳥居をおくようになったのです。

※第三の鳥居

信長塀は熱田神宮の正門がここにあったということを唯一証明する重要な建造物なのです。

MEMO
ちなみに神宮四門は海上門・春敲門・鎮皇門が焼失していまい

現在では姿を確認することはできませんが

清雪門は現在も残っているので見てみると歴史に触れることができます。

熱田神宮の信長塀を見学するなら当時の姿を思い浮かべながらみるとおもしろい

信長塀に関する記事をまとめてみました。

 

ただぼやっとみるだけではなく織田信長が何で塀を寄進したのかを考えてみたり

信長塀に国宝であった海上門が繋がっていたと思ってみるとより熱田神宮を楽しめると思います。

 

もし熱田神宮に訪れたらこの記事の内容を思い出していただいて信長塀をご覧になってください。

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