ころんくん
今回の記事は、尾張国最大規模の大きさを誇る断夫山古墳についてご紹介していきます。
断夫山古墳は古墳時代後期に築造されたと推定される古墳で現代においても
本格的な発掘調査が行われていない謎の多い古墳と言われています。
この記事では、断夫山古墳に眠る人物についての情報や実際に墳丘を登ってみたので
その時の様子をレポートしています。
目次
尾張国最大規模の断夫山古墳とは
断夫山古墳は愛知県名古屋市熱田神宮公園内にある尾張国最大規模を誇る大型古墳です。
形状は前方後円墳となっており、大和王権設立後の5世紀末から6世紀初頭に築造されたものと推測されています。
墳丘の長さは推定150m・高さ16mとなっており、
これは大王級の古墳だとも言われています。
昔は、「鷲峰山」「団浮山」「段峰山」などと呼ばれており、
江戸時代の書物「尾張名所図会」では「鷲峰山」と記載されています。
本格的な発掘調査は行われていませんがいくつかの出土品が確認されています。
元々は、古墳を囲む形で大規模な二重周壕が掘られていたが現在ではその痕跡を確認することはできません。
断夫山古墳は誰のお墓?
断夫山古墳は大規模な古墳ということから尾張国において相当な権力者の墓だということが予想されています。
具体的に誰の墓なのかは解明されていませんが、
一説によると当時の「尾張国の首長」やヤマトタケルの最後の妻「宮簀媛」ではないかと言われています。
尾張国は日本書紀や古事記などの正史では目立った活躍をしていませんが
古くから天皇家と深い関わり合いを持ち、熱田神宮には三種の神器である「草薙剣」祀られ続けています。
冷静に考えると天皇の証である三種の神器が天皇のもとを離れ、一豪族の支配する国にあることは不思議といえます。
しかも、伊勢神宮の八咫鏡ように草薙剣がやってきた経緯が明確になっておらず
いつの間にか伊勢にいる倭姫が所持していて、勝手にヤマトタケルに渡しているという・・・
本当のことはわかりませんが天皇家にとって表舞台に出てきては何か都合の悪い豪族だったのかもしれませんね。(←あくまでも想像です笑)
断夫山古墳は明治になるまでは熱田神宮の大宮司家が管轄していた古墳で
大切に管理されていました。
そのことから熱田神宮創建者である「宮簀媛」ではないかと想像されます。
また、南西に行ったところにヤマトタケルの墓である「白鳥陵」があることからも様々な想像ができます。
断夫山古墳という名称も「夫を断つ」という字が当てられていることから宮簀媛を連想してしまいます。
【レポート】断夫山古墳を登ってみた
それでは断夫山古墳に登ってみたのでその様子をご紹介します。
断夫山古墳は「熱田神宮公園管理事務所」に申告すればどなたでも登ることができます。
熱田神宮公園管理事務所
・営業時間:8時30分~17時30分
・休業日:毎週月曜日(ただし、祝日にあたる場合はその翌日)
ではでは、入山していきます!
出入り口は一箇所となっております。
管理事務所に申告は済ませてあるのでロープを超えて進んでいきます。
なかなかの急な斜面になっています。
斜面を登り切るとちょうど円墳の山頂になり、前方部へ道が整備されていました。
昔はここから熱田台地と熱田湊が一望できた絶景スポットだったんでしょうね!
入山時間は10分前後で十分な規模です。
下山したら管理事務所に再度報告して終わりです。
謎の多い古墳ですが、熱田神宮と何らかの関わり合いを持っていることは間違いありません。
興味のある方はぜひ自身の足で歴史を感じてみてください!