今回、尾張国の愛智郡にある物部神社を調べていたら気になることがわかった
まず物部神社は宇麻志麻遲命を御祭神としている神社にも関わらず
由緒にそのことが書かれていないことだ
そもそも物部神社は尾張国の祖神である饒速日の子供にあたる宇麻志麻遲命の末裔が
祖神である宇麻志麻遲命を奉るために建てた神社が物部神社である
だが現在尾張国の式内社となっている物部神社には祖神のことではなく
神武天皇が東征の時に見つけた大石を中心とした由緒になっている
これは元々大石を奉るための祠だった場所を式内社である物部神社に後からしたのかもしれない
Wikipediaによると
1868年(明治元年)、尾張国千種村の本社が延喜式神名帳の物部神社に同定された。
と明治になってから式内社ではないのかと決まったものなのだ
だからこの物部神社は別名:石神神社または石神堂と
大石に関する名前が根付いているのではないのかと思う
まだ疑問に思うことはある
これは江戸時代に書かれた尾張国名所図会と呼ばれる
観光名所を案内した雑誌のような物です
これに物部神社と高牟神社のことが書かれている絵がある
高牟神社は物部氏が武器庫として使っていたところを神社とした神社で
ここで話している物部神社の近くにある
位置関係的にこの絵の通りなら物部神社が今の場所にあることは納得できるのだが
明治初頭の古地図を見てみると
高牟神社はあっても物部神社が地図に載っていないのです。
では物部神社はどこなのかと調べていると
ネット上にある仮説が唱えられていた
実は物部神社は物部神社や高牟神社のある古井村周辺ではなく
御器所村の御器所八幡が本当は物部神社だったのではないかと言われているようだ
確かに元々の神社が何らかの争いなどによって他勢力に飲み込まれ社名が変わるといったことは珍しくない
地名的にも物部神社は愛智郡とあるが隣の山田郡とかなりギリギリの場所でもある
御器所村だとしたら愛智郡であることは間違いないので納得のできる話ではある
まぁ、これらのことはあくまでも確証のないことなので
どれが本当のことなのか正しい情報なのかは
現時点では謎おきことでわからないのが本音
引き続き神社の図鑑は式内社の調査を行なっていく